・「生存のための災害学」 新曜社/291頁(1984.9)
・「災害への社会科学的アプローチ」(編著) 新曜社/285頁(1981.3)
・「巨大地震 : 予知とその影響」 (編著) 東京大学出版会/212頁(1986.8)
・「災害に出合うとき」 (朝日選書559) 朝日新聞社/265頁(1996.8)
・「きちんと逃げる。~災害心理学に学ぶ危機との闘い方~」アスペクト/157頁(2011.9.6)
・「人はなぜ逃げおくれるのか―災害の心理学」 集英社新書/185頁(2004.1.21)
・「巨大災害の世紀を生き抜く」集英社新書/187頁(2011.11.17)
・「災害防衛論」 集英社新書/252頁(2007.11.16)
・「どんな災害も免れる処方箋―疑似体験『知的ワクチン』の効能」講談社新書/188頁(2009.11.20)
・”Volcano Management in the United States and Japan. “(Contemporary Studies in Applied Behavioral Science Vol.7) (under jo int authorship with Ronald W. Perry JAI Press Inc/230頁 (1991)
芥川の「藪の中」では、登場人物たちは意図的にか、あるいは無意識にか嘘をついているのだが、かりに、誰も嘘をつかないとしても、なにが真実かを語ることは誰も出来ない、明確には真実の一面だけを捉えることしか出来ないのである。
群盲が象をなでているようなものである。
人生においても、あるいは人類の歴史においても、我々はその真実なるものを捉える完全な能力を持っていないのだ。
したがって、あいまいな真実らしきものをつかむ手掛かりをつかむためには、従来の断定的な枠組みにとらわれてはならないということだろう。
真実を語る上で、あいまいさはむしろ物理的に生じるものであって、避けることができない。
つまり、それは不可避的な副産物として存在するものである。
従って、あいまいであるということが真実を語っているのではなくて、真実を語ろうとすると、そこにあいまいさが付きまとうのが本当のところである。
しかも、どの程度のあいまいさがあるのかはわからない。
むしろ、あいまいさのない真実はないということに注心すべきだろう。
このように見てくると、真実とは、複眼的視野の中におぼろげに現われてくるもの、それは、全体として我々がそれを見すかし、感じ取り、そしてそれを受け入れるものではあるまいか、と私は考えている。
続く
もし我々が、非常に明瞭な、あまりに明確な言葉を使って何かを表わすとすれば、それは時間限定であり、地域限定であり、文化限定で、一面では効率的であるが、賞味期限のあるもので終ってしまう可能性がある。
つまり、場合によれば、あいまい性が永遠性を保証するものになりうる、ということに我々は目を向ける必要があろう。
だがもちろん、ただあいまいであるだけでは、それは無価値であるばかりか、むしろ害悪でしかない。
ここでの問題は、真実を語るにはあいまいさを排除できないということなのだ。現実はそう単純ではないということだ。
ひとつの真実があり、一つの原理があるというようにはいかない。
真実はあいまいさを含まざるをえない。
我々の側からしても、そうでなければそれを飲み込むことが出来ないのである。
私は不可知論者に傾きつつあるのかもしれないのだけれども、絶対的な真実、もしそのようなものがあるとしてのことだが、を知ること、あるいは理解することは、不可能であると思う。
自然科学におけるきわめて普遍的な真理でさえも、せいぜいのところ我々の住むミクロコスモスの中でしか妥当しないのである。
絶対的に確かなものは存在しないし、確からしさを確率的に表現することの確からしさもそれほど確かなものではない。
我々は、あいまいさに包まれた真実を認めざるをえないし、その中にある真実に目を凝らすべきなのだろう。
われわれがリスクの問題を考えるときにもこのような視点が重要である。
続く
正統的なシェイクスピア役者は、かりに現代という時代設定の中でベニスの商人を演じる場合でも、セリフはシェイクスピアの原作そのままだし、韻の踏み方や言葉のリズムも、息つぎのしかたも当時のまま演じるのだという。
これはシェイクスピア劇の基本的な限定なのだそうだ。
これがなくなれば、もはやシェイクスピアではないし、それがまたシェイクスピア作品の美しさの主な源泉ともなっている。
だが、セリフは入りくんでおり、さまざまな解釈を可能にするほど多彩である。
それゆえであろうか、それだけでもなかろうが、いままでとは違ったふうに解釈してみたい、これまでにない新しい味付けをしたいといざなう何かがある。
翻訳者を飽くことなく魅惑して新しい創作に駆り立てる、何か根源的なものがありそうだ。
それは一体何なのか。多くの作品の中で登場人物の輪郭は、単純な描線であらわされていない。
しばしば同じ人物が、強くもあり弱くもあり、慎重でもあり軽率でもあり、残忍そのものであるかのようでいて良心の呵責に悩んでいる。
最悪人が悪そのものではなく、気高く勇敢な人物が嫉妬に狂い人を殺す。
善であり悪であるのだ。
マクベスの魔女の言葉のように、「きれいは穢きたない。穢きたないはきれい」なのである。
同じような言いかたをするならば、「本物は偽物、偽物は本物」「確かはあいまい、あいまいは確か」なのだ。
真実とはそのようなものとしか表現できないのではないのか。
言葉遊びのようだが、われわれが直面する真実のリスクもまた、そのようなものなのだ。
確率的に表現できるものなど、リスクの中の小物にすぎない。言葉は明瞭だが、実体はあいまいだからだ。
続く
かなり前の話しだが、ロンドンの王立演劇アカデミーの元校長、ニコラス・バータ-氏と、シェイクスピアの魅力とは何なのかということで雑談をしたことがある。
バーター氏は、イギリス演劇界の重鎮のひとりだそうだが、このことは後になってから知った。
さて、その時の話で、シェイクスピアの魅力の一つは、役者が発する言葉の多義性にあるということになった。
このようなことは多くの人々が言っていることで、特別に目新しいことではない。
多義的であることは、その対極にある一義的であるのとは違っていてあいまいさがつきまとう。
問題は、そのあいまいさの本質である。
戯曲作家の側からすれば、権力者や為政者から加えられる迫害や圧力から身をかわす保身の術として用いる必要があっただろう。
シェイクスピアの劇の多くは、政治劇でもあったのでなおさらである。
あいまいさによって尻尾をつかまれずにすむ。
一方、作品の側からすると多義的な言葉によってイメージは重層化する。
その場合、あいまいさは、物に対する影のようにイメージに奥行きをもたらす。
そして現実は、もしかすると、多義的で一義的に定まるようなものではないのかもしれない。
「ハムレット」や「マクベス」のようないくつかのシェイクスピアの作品の主人公は、その性格のあいまいさのゆえに、かえって時を超えた生命を保っている。
自然科学の世界の“真実”でさえも科学史の立場から見れば、次の“真実”に置きかわる前の暫定的なものにすぎないではないか。
厳密さの点では比べるもののない数字においてすら、あいまいさは避けられないという。あいまいなるがゆえに、一元的な神の支配を免れることができる。
※この対談は2009年5月に行われたものです
【インタヴューアー】 鍼灸臨床で診療録を作成するとき、最近はPOSシステムという医学的な根拠をもとに、患者の主観的な部分と、われわれが診た客観的な部分を勘案して評価をしていきます。
この、「勘案して」が非常に難しい。特に東洋医学的な部分で物事を考えていくと、2000年も前の社会風習が乗っているので、それを現代的な部分として見てしまうと、ギャップがあります。気候風土も違うと思いますし。
【広瀬】 2000年も前の考え方が鍼灸の世界の中にも反映されているんですか。
▶ https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=2585
【インタヴューアー】 はい。今、鍼灸は現代西洋医学的な考え方と、古代中国から始まった中医学の考え方、そして古典鍼灸の3つにほぼ体系化されています。われわれは東洋医学をやっていますので、東洋思想を反映させている。7つの感情の変化も、実はそこに起因しています。先ほどエビデンスの話がありましたが、古代中国的な考え方だけで進める状況ではないと思います。
東洋医学をどこまで受け入れて治療に当たるか、大きな課題の一つだとは思っています。なので、鍼の真の効果も見つつ、古典で言っていたことを現代的に解釈するためには、どういう手法を使ったらいいのかも、これから真剣に取り組んでいかなくちゃいけない部分なのかなと。
【広瀬】 特にコミュニケーションの面でいえば、古代中国でのコミュニケーションの在り方と現代社会でのコミュニケーションの在り方は違うわけですから、当然医療者と患者の関係も違うでしょう。その違いをどうやってアップデートしていくかが重要な課題になると思います。
【インタヴューアー】 難しい部分がたくさんありますが、RCTも一つの方法論かもしれませんし、生理学的な試みもしていきたいなと思っています。できるだけ客観的なものをつくりつつ、いわゆる真の効果を探求して、プラシーボはプラシーボとして伸ばしつつ。欲張りでしょうか。
【広瀬】 いいえ。プラシーボは偽薬だという発想があります。偽薬の概念が出てきたのは20世紀になってからです。臨床治験の中で比較対照用のニュートラルなプラシーボを使う状況になってから、初めて偽物という言い方がされるようになりました。ところが、ニュートラルのはずのプラシーボに治療効果があることが再発見されたのです。偽薬というとインチキな感じがしますが、あえて偽悪化する必要はない。本来医療が持っているべき一つの要素であって、プラシーボだから本当の医療ではないという言い方は間違いだと思います。
特に東洋医学は、それらが渾然一体となっているわけですから、プラシーボ効果を最大限に生かすためにどうしたらいいかという方向での検討も必要でしょう。われわれは何千年にもわたってプラシーボ効果の恩恵を受けています。現代医療の中で、例えば臓器移植や遺伝子治療を受けるとき、安心し自信を持って生きていくために、東洋医学的な発想といいますか、あえて言えばプラシーボ効果を有効に使った方法論を活用すれば、患者は予後をうまく乗り切っていくことができるのではないかと思います。
【インタヴューアー】 力強いお言葉をいただいて、勇気づけられます。今日はいろいろなお話をお聞きし、勉強になりました。ありがとうございました。
終わり
※この対談は2009年5月に行われたものです
【インタヴューアー】 患者と接するとき、気を付けておいたほうがいいところがありましたら、教えていただけませんか。
【広瀬】 臨床心理のカウンセリングを例にして話してみましょう。面接の仕方にはいろいろな方法があります。ロジャース法を用いる人がけっこう多いですが、ここでは、相手の言葉を受け入れることが重要です。ひたすら受け入れて、患者が本当は何を不安に思っているかを、患者自らがしゃべり始めるようになることが必要です。最初に治療院を訪れる時は警戒していたり、多分に自分のことを良く見せようとしたり、いろんな人間的要素が働いていて、本当のことを言わないかもしれないですからね。そして、「あの先生なら自分の言っていることを受け入れてくれて、自分のことを理解してくれる」という、一種の信頼関係ができたときに、患者自身が何を求めていて、どういう心身の状況なのかということがわかってくるわけです。
自分を装ったり、うそをつく必要はないことを感じさせる。この本※にも書きましたが、同じ薬でも患者自身が絶対効かない、あるいは効かせないようにしようとすれば、それは効かない。自分の態度を変えてそれを受け入れるとき、初めて効くようになる。同じように、受け入れる側が本当に受け入れるという姿勢を持ったときに、初めてそこに医療者と患者との間のコミュニケーションが成り立ち、良好な医療が行われると思います。
※心の潜在力 プラシーボ効果 (朝日選書)
▶https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=2585
【インタヴューアー】 あまり入り過ぎてもいけないですよね。同情してしまうと、むしろ相手に引っ張り込まれてしまうとも聞きます。
【広瀬】 相手にオーバーコミットしちゃいけない。医療者は医療者としての領域があり、患者は患者としての領域がある。その境を越えて、例えば個人的な問題などにかかわってくると、今度は
「あいつ、前にはこんなこと言ったじゃないか」
とか、愛憎関係が出てきたりする。心理療法でも難しいのは、どうしてもそこへ行っちゃうんですね。何回も面接していると相手のことがよく分かってくるものだから、同情が出てきたり、
「あんた、飲みすぎちゃいけないよ」
などと個人的な生活に立ち入ってきたりする。そのうちに、医療者と患者の境界がはっきりしなくなります。
医療者と患者との関係は、ある意味で君子の交わりのようなもので、淡きこと水のごとし、しかも冷たい水ではない関係だと思います。
【インタヴューアー】 難しいですね。それを体得するためには、われわれどんなことを常日ごろ考えておけばいいでしょうか。
【広瀬】 まず、自身の心理、ほかの人の心理を知る必要があると思います。患者は、いろんな年齢の人がいますし、性別の違いもあります。誠実な態度を持って、相手を理解しようとすることが大切なのではないでしょうか。
続く