もし我々が、非常に明瞭な、あまりに明確な言葉を使って何かを表わすとすれば、それは時間限定であり、地域限定であり、文化限定で、一面では効率的であるが、賞味期限のあるもので終ってしまう可能性がある。
つまり、場合によれば、あいまい性が永遠性を保証するものになりうる、ということに我々は目を向ける必要があろう。
だがもちろん、ただあいまいであるだけでは、それは無価値であるばかりか、むしろ害悪でしかない。
ここでの問題は、真実を語るにはあいまいさを排除できないということなのだ。現実はそう単純ではないということだ。
ひとつの真実があり、一つの原理があるというようにはいかない。
真実はあいまいさを含まざるをえない。
我々の側からしても、そうでなければそれを飲み込むことが出来ないのである。
私は不可知論者に傾きつつあるのかもしれないのだけれども、絶対的な真実、もしそのようなものがあるとしてのことだが、を知ること、あるいは理解することは、不可能であると思う。
自然科学におけるきわめて普遍的な真理でさえも、せいぜいのところ我々の住むミクロコスモスの中でしか妥当しないのである。
絶対的に確かなものは存在しないし、確からしさを確率的に表現することの確からしさもそれほど確かなものではない。
我々は、あいまいさに包まれた真実を認めざるをえないし、その中にある真実に目を凝らすべきなのだろう。
われわれがリスクの問題を考えるときにもこのような視点が重要である。
続く