安全・安心研究センター 広瀬弘忠のブログ

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台風

災害の衝撃期の直後、生き延びた人々の間に喜びを分かち合ったり、自分よりもっと過酷な体験をした人達に手をさしのべる愛他行動が生まれる。

災害直後のこの時期を、災害後のユートピアと言うが、この種のサバイバル感情は長続きしない。

次第に、心身の不調を訴える人が多くみられるようになる。

これを災害症候群と言う。

この症状が、固定してPTSD(心的外傷後ストレス障害)につながっていく人もいる。

関東大震災や阪神大震災と、広島、長崎の原爆被爆(原爆投下も災害に含めた場合だが)を、災害の影響という観点から見ると、前者は体感型であり、災害衝撃期が短い、一方、後者は非体感型で、災害衝撃期が長く、かつ非限定的である。

影響は後者のほうがより深刻である。

広島・長崎の被曝者は、50年以上経っても、なお、自らを「ヒバクシャ」と規定する。

私は軽井沢に暮らすことが多くなっている。わが家の庭には、大きな栗の木と、何本かのミズキの大木があった。ある年の台風で、それらが大きく傾いた。植木屋が言うところでは、今度大きな台風が来たら、倒れて隣家やわが家に被害を与えるかもしれないとのことだ。そこでやむなく、重機を使って吊り上げて切るというずいぶん荒っぽいことをやって、それらの大木を伐採してもらった。それは3月のことで、まだこの地では雪が残っていた。だが、わずか4カ月後の、7月になってみると、大きな栗の木、毎年たくさんの栗の実を地上に落していた大木がなくなった空間を、それまで隠れていて、少々いじめられていたトウヒの木がめざましい成長を遂げて占領してしまっていたのだ。2メートルも樹高を伸ばし、かつて栗の木が覆っていた天井と同じくらいの高さにまで成長していたのである。同じことが、直径80センチほどのミズキを切った後にも起った。ミズキの陰に隠れて、ほとんどこれでは枯れるのではないかと思っていた山法師が、これもまた勢いづいて、大いに枝を張り、軒先にまでその枝が届くような始末であった。しだれ桜もまた同じであった。

トウヒや山法師やしだれ桜にとって、栗の木やミズキは、自分の成長を妨げる邪魔者以外の何者でもなかったのである。よく世間で「余人をもって変え難い、だから今回は留まって欲しい」と慰留して、高齢の人物を長くその地位に押し止めておく習慣がいまだにあるが、これは若い世代の成長を阻み、世の中の進歩を遅らせる最大の原因ではないかと思い至ったのである。多くの新しい時代、あるいは革命や革新は、時に暴力的な若い世代によって担われている。フランス革命も然り、アメリカの独立運動も然り、日本の明治維新もまた然りである。古い世代や旧体制を暴力によって打ち倒すことは、いわば災害であり、犠牲をともなう。

台風や地震のような自然災害であろうと、大火災や大爆発のような人為災害であろうと災害には古きものを倒し、新しきものを芽生えさせるという側面がある。第1次世界大戦時に、カナダのハリファックス港で起った弾薬積載船の大爆発事故も、関東大震災も同じである。悲劇は悲劇だけではないのである。

災害は、社会の新陳代謝のサイクルをはやめ、世代交代を加速する。

私の庭で起ったこの世代の交代劇において、私はたまたま偶然にも災害を下す役割を演じてしまったわけだが、そのことが、今まで伸び悩んでいた新しい勢力を大いに元気づけたということも知ったのである。災害の働きを冷徹に見れば、それは幾分かの効用も持っているのである。余人は常にいて、それはいつでも当人と交代可能だということを思い知らされた次第である。