安全・安心研究センター 広瀬弘忠のブログ

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原子力災害・放射能汚染・アスベスト災害

地震と津波と原発災害の複合

 

3.11以来、私は東日本大震災の被災地を4回訪れて調査を行った。何といっても、最大の被災地は福島県である。地震と津波による大打撃を受け、しかも原発災害で甚大な被害をこうむっている。

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われわれが東日本大震災の3ヵ月後に行った全国調査から得られたデータにより作成した図である。「東日本大震災で起きた地震、津波、原発被害のうちで、最も深刻な被害を与えた災害は何ですか」という質問に対する回答分布を示している。原発災害が最も深刻であったという回答が過半に達しているのが注目できる。

 

M9.0の巨大地震や10メートルを超える巨大津波よりも、直接的な死者を出さなかったレベル7の過酷原発災害のほうが、なぜ深刻だと判断されるのか。

理由1:地震や津波などの自然災害は体感型災害であるという事実にある。被害の程度が具合的に把握でき、しかもその責任を帰属させるべき大自然を前にして、被災者の多くは、ひたすら頭をたれる以外になすすべがないからだ。

理由2:理由第1と密接に関係している。原発災害には、インフルエンザ・パンデミックと同じように、災害因を五感でとらえられない不気味さがある。私が福島第1原発近くの避難所であった人々は、原発関連の仕事をしていた人が多いせいか、放射能被爆に関しては、恐れというよりも諦めの気持ちをあらわにしている人が多かったように思う。避難を余儀なくされているが、東京電力に対するうらみはないと言うひともいる。だが、不思議なことに、60キロも離れた福島市や郡山市の人々は、両市の線量がともに高い一方で、原発による直接的恩恵も受けていないせいもあろうか、放射線被曝に対する恐怖心がより強いのである。

過去30年間に日本で発生した被害地震(死者10人以上)のすべてが想定外の地域で起こっていると言ったのは、ロバート・ゲラー東京大学教授だ(Nature,472,7344)。6,400人の死者・行方不明者を出した1995年の阪神大震災にしても、後になってからいろいろな人たちがさまざまな研究発表を並べ立てて、あたかも直下型の大地震をあらかじめ予測していたかのようなことを言ってみたり、メディアもそれを大きく取り上げたりする。68人の死者を出した2004年の新潟県中越沖地震でも同じだ。新潟の中山間地を襲ったM6.8の直下型地震で、川口町では日本の震度階でこれ以上ない最高レベル震度7の揺れを記録したこの地震を、自分は本当に予知していたと言える人が果たしているだろうか。

 

その意味からして、東日本大震災は、誰も正面きって予知していたと明言できない大地震だ。予知というのは、「ありそうだ」とか「いつかはきっと」などといったレベルの予想とは違うものでなければならない。

 

貞観地震(869年)やこの地震に起因する津波のことを言い立てたところで、それは1142年も昔の歴史的な災害にすぎない。われわれの意識からすれば6千500万年前にメキシコのユカタン半島沖に激突し、地球上の種の3分の2以上を絶滅させたという直径10キロほどの小惑星の存在とほとんど違わない。災害や事故が想定外であるという言葉が意味するのは、ある特定の想定に立ったときにその範囲内に含まれていないことが起ったということを言っているにすぎない。想定外といってみたところで、それはご自身の想定になかったということで言い訳にもならない。

 

「明日起っても不思議ではない」という殺し文句で世の中を不安にさせ、東海地震の直前予知は出来るという無理まで世間に承知させて1978年に「大規模地震対策特別措置法」が制定されたのは、地震恐怖症が、不可能な地震の直前予知を可能だということにして、国の法律までも作ってしまったという世界でも希有の例である。この法律が現在でも存続していることの意味は、依然として東海地震の直前予知が、条件つきであるにしても想定されているということなのである。ところが、世界の多くの地震学者は、直前予知は出来ないとはっきりと明言しているのだ。この場合は誤った想定が、国民に誤った幻想をもたらす想定害だということになる。

 

多くの大災害は想定外のところで起こるという事実を忘れてはなるまい。それはアキレウスの踵を鋭くつき刺したパリスの放った矢の如きものである。想定内だとか想定外だとか言わないことにしよう。想定していないことが起るから被害を生じるのだ。災害とはそうしたものである。災害予知は不可能だということを認めよう。そのうえで、われわれには、想定外の災害が起こってもそれをはね返す災害弾力性がもとめられるのである。災害に対する抵抗力、免疫力のことである。これらの涵養につとめることが肝要だ。