安全・安心研究センター 広瀬弘忠のブログ

Category

その他

不確かさを伝える技術

不確かな状況下で確からしさを見せようとすると失敗する。

社会全体にパニックが起こることを懸念して安全を装うと、次々と現われてくる事実によって、政府や省庁、科学者の言動が信用を失う破目になる。

そこで、もしマスメディアが、伝達すべき情報を大本営発表のように鸚鵡返しに、無批判に受け手である国民に伝えたとしたら、いったいどのようなことが起こるだろうか。

マスメディアも、また信用を失うことになるだろう。

今回の福島第1原子力発電所の事故の場合のように、マスメディアが自力でアクセスできる情報源が乏しく、政府や事故を起こした東京電力からの情報が限られている状況下で、記者たちはいろいろな疑問を感じながらも、最初の1週間ほどは、いわば政府の広報部隊としての役割を演じざるをえなかったようだ。

既に述べた全国調査を、われわれは毎年実施している。

調査方法と調査対象者数は、毎年同一である。

震災前の2010年9月と、大震災をはさんで2011年6月に行った調査結果を比較してみることにしよう。

この2回の調査でわれわれは、「災害に関する情報源として、どこからの情報が最も信頼できますか」という質問と、「災害に関する情報源として、どこからの情報が最も信頼できませんか」という質問をしている。

 

この図は、「最も信頼できる情報源」について、大震災前後の結果を並べて示している。

1番多くの人々の信頼を得ているのが「県や市区町村」であることは、2回の調査で変わりはない。

避難勧告や避難指示などの発表から、避難所の設営など、地方自治体が地元に密着した行政機関であることが、最も信頼される理由だろう。

けれども、震災後には、「県や市区町村」からの情報を信頼している人々の割合は、震災前の3分の2ほどに低下していることがわかる。

「政府や省庁」をあげた人は、2010年には20.9%で2位であったが、震災後は、その約半分の10.6%に低下していて、しかも全体の中では4位である。一般に行政への信頼度が低下している。

他方で、「テレビ局の独自放送」と「大学や研究所などの専門家」からの情報を信頼する人々が増え、「県や市区町村」と肩を並べるまでになっている。

続く

ハザードシミュレーションの効用と限界

地震や津波、新型インフルエンザなど、個別のハザードシミュレーションは、防災予知ツールとして極めて有望である。

だが社会的ニーズが高い一方で、その研究はいまだ確立しているとは言い難い。

現状は、システム構築のためのパラメーターの選択と、既存データの取り組みに試行錯誤していて、災害因の発生予知に使えるメドが立たない。

今回の東日本大震災を引き起こした地震の場合は、全くの想定外であり、発生のメカニズムさえ予想できなかったのだ。

だが、その一方で、原子力発電所事故の場合の放射性物質の拡散シミュレーションであるSPEEDIは違う。

環境中に放出される放射性物質の量は不明であるとしても、排出される場所が確定していて、地形も所与であるので、風向や降雨による放射性物質の汚染地域を推定するこのシミュレーションの予測の精度はかなり高いはずである。

この結果を用いて避難区域を設定すれば、避難者の被曝線量を低くおさえられたはずである。

政府はこのシミュレーション結果を、国民の放射線被曝の低下のために用いなかっただけでなく、シミュレーションの結果の公表さえ、12日後の3月23日まで行わなかったのである。

原子力災害に関して情報を隠しているという反発が国民の内に強くなっていったのは、当然のなりゆきだろう。


2012年1月被災地にて

 


2011年9月被災地にて

続く

スローオンセット災害への対策

かりに巨大津波が来襲したとしても、強烈な地震を感じたあとに1時間以上の余裕があれば、その間に、大勢の人々は避難できるはずである。

今回の津波のように、津波が発生してからそれが被災地に到達するまでに、かなりの時間を要するような災害、すなわち、災害因の発生から被害発生までに時間的余裕のある災害を、スローオンセット型災害と呼ぶ。

2011年6月 被災地にて

 

今回の原子力事故が原子力災害に発展するまでには、さらに多くの時間的余裕があったはずである。

3月11日2時46分-2時47分に福島第1原子力発電所の1号機から3号機までの原子炉が緊急停止した。

それからほぼ1時間後に1号機-4号機までの全交流電源が喪失して、1号機の冷却システムが停止。

さらにその4時間余り後には、1号機の炉心溶融が始まっているのだ。

GE製のマークⅠ原子炉では、このことは十分に想定できたことである。

この原発災害もまたスローオンセット型である。

そもそも、スローオンセット型の災害は、事後対応が可能なはずなのである。

続く

原子力発電所は、電動式の猛毒物質大量貯蔵庫である。

この毒物のかたまりを守っているのは、皮肉なことに、それ自らが生み出しているのと同じ電気である。

電気が切断されると、原子力発電所は時限爆弾と化すのである。

全電源喪失のような事態を引き起こすのは、津波や地震だけではない。

テロでも戦争でも大火災でも大洪水でも起きるだろう。

複合災害の最終かつ最大の災害因が、原子力事故や感染症の大流行であるパンデミックのようなものであるとするなら、どのようなドミノの組み合わせが、この最終ドミノを倒すことになるのか、十分に検討する必要がある。

想定外を想定せよ

われわれの生活が電気に頼りすぎていることが問題なのかもしれない。

日常生活から医療、通信、交通にいたるまで、すべてに電気が使われている。

しかも電気があるのが当然だという生活をしているのだ。

あたかも、水や空気があるのは当然であるかのように。

だが、それらはいずれも、あるのが当たり前と言えるほどに確たるものではない。

たとえば、3月11日のあとの医療の現場の混乱ぶりについて、NTT東日本関東病院の病院長である落合滋之さんは次のように書いている。

「仮に計画停電となったら・・・。全てが電子カルテ化されている当院は、今更、紙カルテや紙の伝票による運用に対応できるのだろうか。システムダウンを想定してそのための訓練も行ってきたはずではあるが、システムが安定して既に久しいだけに、紙カルテや伝票の所在すら記憶が朧になりかけてはいないだろうか。CTやMRIのような医療機器は、電流・電圧の急激な変化に弱いと聞いている。いざ計画停電が発令されたら、直ちに対応するべく、短時間の内に、そのスイッチを正しく切ったり入れたりすることができるのだろうか。水道の蛇口や病院のドアも自動になっているが、停電時、これらはどうなるのだろう。非常電源が立ち上がることで、これら全てが何事もなかったように機能するのだろうか。」

この病院は、今年の3月に、国際的病院機能評価機関であるJCI(Joint Commission International)の認承評価をパスしている。

日本では2例目としてJCIの認承評価を受けた優れた病院である。

審査の最終段階の講評が、偶然にも東日本大震災のあった3月11日の午後にあったというのだ。

アメリカからやってきた3人の審査員は、大旨、次のように述べたという。

成績は良好だが、問題もある。

そのひとつは、想定外を想定していないことだ。

それは東京全体が大災害に見舞われ、重油や水が1週間にわたって利用できないとか、東京中が大停電になるというような事態だという。

Think about unthinkable things というのが、彼らの指摘だったという。

これは日本のリスク管理の最も弱いところをついた言葉でもある。

審査員が去った十数分後に、あの巨大地震が襲ってきた。

続く

災害因と災害との駆け引き

まず最大の災害因への対処が優先されるべきである。

東日本大震災の場合、それは原子力災害であった。

われわれが震災後3か月の、今年の6月半ばに行った全国世論調査(全国から日本全体の縮図となるように200地点を選び出し、各地点から15歳-79歳までの男女を住宅地図にもとづいて無作為に抽出。合計1200人に面接留置法でアンケート調査を実施した。)では、「東日本大震災の地震、津波、原子力災害のうち、最も深刻な被害を与えたのは何ですか」という質問を行った。

結果は、原子力災害という回答者が55.4%、津波が24.0%、地震が19.1%であった。ここから、われわれ日本人が、東日本大震災を、地震災害でも津波災害でもなく、原子力災害であると認識していることがはっきりと見てとれる。

もし、このような災害認識が妥当であるとするならば、東日本大震災の教訓を受けて、われわれが第1に注力すべきは地震対策ではなく、原子力発電所の安全対策であり、次に津波対策である。

それらの災害対策は独立のものと考えるべきだ。

われわれは、地震のマグニチュードだけに心を奪われすぎていないだろうか。

特に、海溝型の巨大地震においては、津波の被害が地震のそれを大きく上回ることが十分に予想されるだけでなく、日本の原子力発電所はすべてが海水を冷却水として用いるため海岸沿いに立地していることを考慮すると、この種の巨大地震では、原子力発電所の安全対策が第1で、次が、津波対策、最後が地震対策の順であることがわかる。

続く

福島第1原子力発電所の事故は、欧米を中心に、国際的な脱原発ムードを高めた。

 

他方、国内的には、広範囲にわたる放射能汚染による健康障害と、福島県を中心とする東北3県からの人口流出、経済基盤の弱化、放射性物質による汚染地域としてのイメージの悪化など、日本の社会、経済、文化への重大な影響をもたらしている。

 

日本のような人口稠密で工業化の著しい先進国では、国内で発生する災害因の規模と、それに起因する災害の大きさとは、きわめて高い相関を持っている。

 

世界の中で、下り坂を降りるようにその存在感を希薄化させつつあった日本という国は、この災害によってさらに下降速度を速めるだろう。

 

一般に、大災害は社会変化を加速し、通常は一世代かかって起こるような変化を、数年のうちに達成させてしまう。

 

続く

だが、その後は、地震、津波、原子力事故に起因し関連する幾多の災害因が派生し、東北地方を中心に、さまざまな関連災害を水紋状に日本全国に拡散させていった。

特に、福島第1原子力発電所の事故は、そのなかの最大の事象であった。

災害の終息までに数十年を要し、その影響は短期的には、電力不足によるサプライチェーンの切断に起因する工業製品、食品産業などの生産力の低下と、放射性物質による汚染で、農林漁業のこうむった損失は大きい。

 

原子力発電に依存しすぎたツケは、エネルギー需給の悪化を招き、わが国の経済的地盤沈下をもたらした。

さらにこの大事故は、安全を標榜して原子力の利用の推進を国是としてきた日本政府への不信をまねいた。

これらはもっぱら政治・経済的被害だが、日本人の安全意識にも大きな影響をおよぼした。

身近なところに思わぬ危険が潜んでいるという危機感である。

災害因の複合化が、災害そのものの複合化をもたらす。

災害因のもたらす衝撃に耐えられない人間の営みがあって、その営みの絡みがいくつかの箇所で切断されるときに、災害が発生する。

われわれが意識せずに、ごくあたりまえとしてきた安全が、単なる「神話」であることが判明したのだ。

われわれはリスクに敏感になり無力感にとらわれると同時に、自分の安全は自分で守る以外には、誰も守ってはくれないという自前意識を強く持つようになった。

 

続く

現代は複合災害の時代である。ひとつの災害がドミノ倒しのように次々と新たな災害を引き起こす。

しかも、この災害連鎖は線状に並ぶだけではなく、多くの場合、2次元の面としての広がりをもって伝播して社会の脆弱性をあぶり出していく。

そして、あとに続く災害ほど被害規模が大きくなることもあるのだ。東日本大震災のように。

2011年6月被災地にて現地調査

 

複合災害の時代

 2011年3月11日の東日本大震災は、典型的な複合災害である。

まず、東北地方沖の太平洋の海底でM9.0の巨大地震が発生した。

第1のドミノが倒れた。

この地震は、多くの建物を倒壊させ、死者、行方不明者を出した。

次いで、この地震を原因とする巨大津波が、東北地方の太平洋沿岸を中心とする地域を襲った。

第2のドミノが倒れたのだ。

この津波は、地震をはるかに超える壊滅的被害をもたらした。死者・行方不明者、約2万人の9割以上は、この津波による犠牲者である。

そして、この津波がうしろから押し、杜撰な原子力発電所の安全管理が前から引き倒すかたちで、レベル7の原子力事故という最大のドミノが倒れた。

ドミノ倒しはこれで終わったわけではないが、ここまで3つの災害因の生起は、直線的な災害因の連鎖と言って良かろう。

過去30年間に日本で発生した被害地震(死者10人以上)のすべてが想定外の地域で起こっていると言ったのは、ロバート・ゲラー東京大学教授だ(Nature,472,7344)。6,400人の死者・行方不明者を出した1995年の阪神大震災にしても、後になってからいろいろな人たちがさまざまな研究発表を並べ立てて、あたかも直下型の大地震をあらかじめ予測していたかのようなことを言ってみたり、メディアもそれを大きく取り上げたりする。68人の死者を出した2004年の新潟県中越沖地震でも同じだ。新潟の中山間地を襲ったM6.8の直下型地震で、川口町では日本の震度階でこれ以上ない最高レベル震度7の揺れを記録したこの地震を、自分は本当に予知していたと言える人が果たしているだろうか。

 

その意味からして、東日本大震災は、誰も正面きって予知していたと明言できない大地震だ。予知というのは、「ありそうだ」とか「いつかはきっと」などといったレベルの予想とは違うものでなければならない。

 

貞観地震(869年)やこの地震に起因する津波のことを言い立てたところで、それは1142年も昔の歴史的な災害にすぎない。われわれの意識からすれば6千500万年前にメキシコのユカタン半島沖に激突し、地球上の種の3分の2以上を絶滅させたという直径10キロほどの小惑星の存在とほとんど違わない。災害や事故が想定外であるという言葉が意味するのは、ある特定の想定に立ったときにその範囲内に含まれていないことが起ったということを言っているにすぎない。想定外といってみたところで、それはご自身の想定になかったということで言い訳にもならない。

 

「明日起っても不思議ではない」という殺し文句で世の中を不安にさせ、東海地震の直前予知は出来るという無理まで世間に承知させて1978年に「大規模地震対策特別措置法」が制定されたのは、地震恐怖症が、不可能な地震の直前予知を可能だということにして、国の法律までも作ってしまったという世界でも希有の例である。この法律が現在でも存続していることの意味は、依然として東海地震の直前予知が、条件つきであるにしても想定されているということなのである。ところが、世界の多くの地震学者は、直前予知は出来ないとはっきりと明言しているのだ。この場合は誤った想定が、国民に誤った幻想をもたらす想定害だということになる。

 

多くの大災害は想定外のところで起こるという事実を忘れてはなるまい。それはアキレウスの踵を鋭くつき刺したパリスの放った矢の如きものである。想定内だとか想定外だとか言わないことにしよう。想定していないことが起るから被害を生じるのだ。災害とはそうしたものである。災害予知は不可能だということを認めよう。そのうえで、われわれには、想定外の災害が起こってもそれをはね返す災害弾力性がもとめられるのである。災害に対する抵抗力、免疫力のことである。これらの涵養につとめることが肝要だ。

やや昔の話だが、ロンドンの王立演劇アカデミーの元校長、ニコラス・バータ-氏と、シェイクスピアの魅力とは何かということで雑談をしたことがあった。バーター氏は、イギリス演劇界の重鎮のひとりだそうだが、そのことは後になってから知った。私はシェークスピアは好きだし芝居も数多く見ているが、専門家ではない。その時の話で、シェイクスピアの魅力の一つは、役者が発する言葉の多義性にあるということになった。このようなことは多くの人々が言っていることで、特別に目新しいことではない。多義的であることは、その対極にある一義的であるのとは違っていて曖昧さが付きまとう。問題は、その曖昧さの本質である。戯曲作家の側からすれば、権力者や為政者から加えられる迫害や圧力から身をかわす保身の術として用いる必要があっただろう。シェイクスピア劇の多くは、政治劇でもあったのでなおさらである。曖昧さによって尻尾をつかまれずにすむ。一方、作品の側からすると多義的な言葉によってイメージは重層化する。その場合、曖昧さは、物に対する影のようにイメージに奥行きをもたらす。

ここで思考の飛躍しすぎをあえておかすことにすれば、あらゆるこの世の現象、あるいは現実もまた、もしかすると、多義的で一義的に定まるようなものではないのかもしれない。「ハムレット」や「マクベス」のようないくつかのシェイクスピア作品の主人公は、その性格の曖昧さや多重性のゆえに、かえって時を超えた生命を保っている。自然科学の世界の“真実”でさえも科学史の立場から見れば、次の“真実”に置きかわる前の暫定的なものにすぎないではないか。厳密さの点では比べるもののない数学においてすら、曖昧さは避けられないという。曖昧なるがゆえに、一元的な神の支配を免れることができる。

正統的なシェイクスピア役者は、かりに現代という時代設定の中でベニスの商人を演じる場合でも、セリフはシェイクスピアの原作そのまま、韻の踏み方や言葉のリズムも、息つぎのしかたも当時のまま演じるのだという。これはシェイクスピア劇の基本的な限定なのだそうだ。これがなくなれば、もはやシェイクスピアではないし、それがまたシェイクスピア作品の美しさの源泉ともなっている。だが、セリフは入りくんでおり、さまざまな解釈を可能にするほど多彩である。それゆえであろうか、それだけでもなかろうが、いままでとは違ったふうに解釈してみたい、これまでにない新しい味付けをしたいといざなう何かがある。翻訳者を飽くことなく魅惑して新しい創作に駆り立てる、何か根源的なものがありそうだ。それは一体何なのか。多くの作品の中で、登場人物の輪郭は、単純な描線であらわされていない。しばしば同じ人物が、強くもあり弱くもあり、慎重でもあり軽率でもあり、残忍そのものであるかのようでいて良心の呵責に悩んでいる。最悪人が悪そのものではなく、気高く勇敢な人物が嫉妬に狂い人を殺す。善であり悪であるのだ。マクベスの魔女の言葉のように、「きれいは穢きたない。穢きたないはきれい」なのである。同じような言いかたをするならば、「本物は偽物、偽物は本物」「確かは曖昧、曖昧は確か」なのだ。

われわれが把握する真実とは、そのようなものとしか表現できないのではないのか。しかも何十万年にもわたり進化して到達した、われわれの この限界を持った認知能力の範囲を超えないという制約のもとに。言葉遊びのようだが、われわれが直面するさまざまなリスクもまた、そのようなものなのだ。確率的に表現できるものなど、リスクの中の小物にすぎない。言葉は明瞭だが、実体は曖昧だ。

もしわれわれが、非常に明瞭な、あまりに明確な言葉を使って何かを表わすとすれば、それは時間限定であり、地域限定であり、文化限定で、一面では効率的であるが、賞味期限のあるもので終ってしまう可能性がある。場合によれば、曖昧性が永遠性を保証するものになりうる、ということにわれわれは目を向ける必要があるだろう。だがもちろん、ただ曖昧であるだけでは、それは無価値であるばかりか、むしろ害悪でしかない。ここでの問題は、真実を語るには曖昧さを排除できないということなのだ。現実はそう単純ではないということだ。ひとつの真実があり、一つの原理があるというわけにはいかない。

真実は曖昧さを含まざるをえない。これはわれわれの認知能力の問題であるのかもしれないのだが、絵画の中で対象と背景とを分ける描線が単なるフィクションであるように、確たるものと不確かなものを分ける境界もまたフィクションであるに違いない。私は不可知論に傾きつつあるのかもしれないのだけれども、絶対的な真実、もしそのようなものがあるとしてのことだが、を知ること、あるいは理解することは、不可能であると思う。自然科学におけるきわめて普遍的な真理でさえも、せいぜいのところわれわれの住むミクロコスモスの中でしか妥当しないのである。絶対的に確かなものは存在しないし、確からしさを確率的に表現することの確からしさもそれほど確かなものではない。われわれは、曖昧さや多重性に包まれた真実を認めざるをえないし、その中にある真実に目を凝らすべきなのだろう。われわれがリスクの問題を考えるときにもこのような視点が重要である。

芥川の「藪の中」では、登場人物たちは意識的にか、あるいは無意識にか嘘をついているのだが、かりに、誰も嘘をつかないとしても、なにが真実かを語ることは誰も出来ない、明確には真実の一面だけを捉えることしか出来ないのである。群盲が象をなでているようなものである。人生においても、あるいは人類の歴史においても、われわれはその真実なるものを捉える完全な能力を持っていないのだ。したがって、曖昧な真実らしきものをつかむ手掛かりをつかむためには、固定的な枠組みにとらわれてはならないということだろう。私は、長年リスクの問題に関わってきて、このことはリスク認知やリスク対応の変動を説明する際の鍵であるように思われる。

真実を語る上で、曖昧さはむしろ物理的に生じるものであって、避けることができない。つまり、それは不可避的な副産物として存在するものである。従って、曖昧であるということが真実を語っているのではなくて、真実を語ろうとすると、そこに曖昧さが付きまとうのが本当のところである。しかも、どの程度の曖昧さがあるのかはわからない。むしろ、曖昧さのない真実はないということに注心すべきだろう。

このように見てくると、真実とは、複眼的視野の中におぼろげに現われてくるもの、それは、全体としてわれわれがそれを見すかし、感じ取り、そしてそれを受け入れるものではあるまいか、と私は考えている。すべてのリスクもまた、そのようなものとしてあるのだろう。