2019年12月1日北海道新聞「電線の地中埋設は景観だけでなく防災の観点からも必要」とコメント
広瀬弘忠
21世紀型の災害は、規模の大きさと複合的な波及性、そして、なによりも衝撃がきわめて長期に渡るという点で、過去の災害とは異なる。従来型の災害に慣れてきたマスメディアは、この型の災害の本質を正確に掴みきれないでいる。
昨年3月11日の東日本大震災では、最初に巨大地震が発生した。次にこの地震による巨大津波が発生した。警察庁の発表によれば、死者・行方不明者19,009人のうち、9割以上が津波による溺死である。
いま、メディアの関心は津波に集中し、巨大津波を引き起こす海溝型地震の危険を訴える報道にシフトしている。「あつものに懲りて膾を吹く」たぐいの過剰な被害想定には十分な批判の目を向けるべきだろう。
津波は、最悪の原発事故を引き起こした。災害ドミノ倒しはこのように直線的に起こるだけではなく、面的な広がりももっている。
たとえば、地震や津波で生じた瓦礫の処理を行う人々は、将来、アスベスト特有のがんである中皮腫にかかるかもしれない。17年前の阪神大震災で瓦礫撤去を行なっていた人々が中皮腫にかかり、労災認定を受けている。現代の災害は、「想定外」の被害を随所に生み出すのである。
原発事故がもたらした放射能汚染は、農林、漁業に大打撃を与えている。マスメディアは、これらの現実を全体として国民に理解してもらえるよう努力しているだろうか。個々の被害を、複合災害全体を俯瞰する立場から捉え、その本質に踏み込むことが重要である。
被害者に寄り添うのは良いが、災害に個人の悲劇のみを見るのは安易すぎる。解くべき課題は、現代社会がかかえる災害脆弱性なのである。木だけを見ていては森は見えてこない。
次の問題は、災害の長期化である。原発事故による放射能汚染や巨大津波によるコミュニティの完全崩壊からの回復には、長い時間が必要である。そして憂慮されるのは、密かに進行する被害の拡大である。
時限爆弾の発火装置は、静かに時を刻んでいく。ところが、メディアはこのような災害を捉えるのが不得意である。すでに述べたアスベストの場合がそうであった。中皮腫は20年、30年もの潜伏期を経て発症する。
ニューヨークタイムズのジェーン・ブロディは、今年の8月21日の健康・科学欄に、画像診断医学に関わる専門家の意見をまとめて紹介している。それによると、CTスキャンによる放射能被爆だけでも、10年から20年後にがんを引き起こす危険があり、それは米国人の発がん全体の1.5%程度におよぶ恐れがあるという。
原発事故による低レベル放射能被爆に関して、多くの日本人が不安を感じている。その不安を宥めるような報道も目立つ。マスメディアは低レベルの放射能被爆が健康におよぼす影響について、きちんとした検証を約束して、その結果を逐次国民に伝えていくべきだろう。3.11当初からの原発報道の混乱ぶりは国民のメディアへの信頼を損なった。今度は、それをぜひ取り戻してもらいたいのである。
芥川の「藪の中」では、登場人物たちは意図的にか、あるいは無意識にか嘘をついているのだが、かりに、誰も嘘をつかないとしても、なにが真実かを語ることは誰も出来ない、明確には真実の一面だけを捉えることしか出来ないのである。
群盲が象をなでているようなものである。
人生においても、あるいは人類の歴史においても、我々はその真実なるものを捉える完全な能力を持っていないのだ。
したがって、あいまいな真実らしきものをつかむ手掛かりをつかむためには、従来の断定的な枠組みにとらわれてはならないということだろう。
真実を語る上で、あいまいさはむしろ物理的に生じるものであって、避けることができない。
つまり、それは不可避的な副産物として存在するものである。
従って、あいまいであるということが真実を語っているのではなくて、真実を語ろうとすると、そこにあいまいさが付きまとうのが本当のところである。
しかも、どの程度のあいまいさがあるのかはわからない。
むしろ、あいまいさのない真実はないということに注心すべきだろう。
このように見てくると、真実とは、複眼的視野の中におぼろげに現われてくるもの、それは、全体として我々がそれを見すかし、感じ取り、そしてそれを受け入れるものではあるまいか、と私は考えている。
続く
もし我々が、非常に明瞭な、あまりに明確な言葉を使って何かを表わすとすれば、それは時間限定であり、地域限定であり、文化限定で、一面では効率的であるが、賞味期限のあるもので終ってしまう可能性がある。
つまり、場合によれば、あいまい性が永遠性を保証するものになりうる、ということに我々は目を向ける必要があろう。
だがもちろん、ただあいまいであるだけでは、それは無価値であるばかりか、むしろ害悪でしかない。
ここでの問題は、真実を語るにはあいまいさを排除できないということなのだ。現実はそう単純ではないということだ。
ひとつの真実があり、一つの原理があるというようにはいかない。
真実はあいまいさを含まざるをえない。
我々の側からしても、そうでなければそれを飲み込むことが出来ないのである。
私は不可知論者に傾きつつあるのかもしれないのだけれども、絶対的な真実、もしそのようなものがあるとしてのことだが、を知ること、あるいは理解することは、不可能であると思う。
自然科学におけるきわめて普遍的な真理でさえも、せいぜいのところ我々の住むミクロコスモスの中でしか妥当しないのである。
絶対的に確かなものは存在しないし、確からしさを確率的に表現することの確からしさもそれほど確かなものではない。
我々は、あいまいさに包まれた真実を認めざるをえないし、その中にある真実に目を凝らすべきなのだろう。
われわれがリスクの問題を考えるときにもこのような視点が重要である。
続く
正統的なシェイクスピア役者は、かりに現代という時代設定の中でベニスの商人を演じる場合でも、セリフはシェイクスピアの原作そのままだし、韻の踏み方や言葉のリズムも、息つぎのしかたも当時のまま演じるのだという。
これはシェイクスピア劇の基本的な限定なのだそうだ。
これがなくなれば、もはやシェイクスピアではないし、それがまたシェイクスピア作品の美しさの主な源泉ともなっている。
だが、セリフは入りくんでおり、さまざまな解釈を可能にするほど多彩である。
それゆえであろうか、それだけでもなかろうが、いままでとは違ったふうに解釈してみたい、これまでにない新しい味付けをしたいといざなう何かがある。
翻訳者を飽くことなく魅惑して新しい創作に駆り立てる、何か根源的なものがありそうだ。
それは一体何なのか。多くの作品の中で登場人物の輪郭は、単純な描線であらわされていない。
しばしば同じ人物が、強くもあり弱くもあり、慎重でもあり軽率でもあり、残忍そのものであるかのようでいて良心の呵責に悩んでいる。
最悪人が悪そのものではなく、気高く勇敢な人物が嫉妬に狂い人を殺す。
善であり悪であるのだ。
マクベスの魔女の言葉のように、「きれいは穢きたない。穢きたないはきれい」なのである。
同じような言いかたをするならば、「本物は偽物、偽物は本物」「確かはあいまい、あいまいは確か」なのだ。
真実とはそのようなものとしか表現できないのではないのか。
言葉遊びのようだが、われわれが直面する真実のリスクもまた、そのようなものなのだ。
確率的に表現できるものなど、リスクの中の小物にすぎない。言葉は明瞭だが、実体はあいまいだからだ。
続く
かなり前の話しだが、ロンドンの王立演劇アカデミーの元校長、ニコラス・バータ-氏と、シェイクスピアの魅力とは何なのかということで雑談をしたことがある。
バーター氏は、イギリス演劇界の重鎮のひとりだそうだが、このことは後になってから知った。
さて、その時の話で、シェイクスピアの魅力の一つは、役者が発する言葉の多義性にあるということになった。
このようなことは多くの人々が言っていることで、特別に目新しいことではない。
多義的であることは、その対極にある一義的であるのとは違っていてあいまいさがつきまとう。
問題は、そのあいまいさの本質である。
戯曲作家の側からすれば、権力者や為政者から加えられる迫害や圧力から身をかわす保身の術として用いる必要があっただろう。
シェイクスピアの劇の多くは、政治劇でもあったのでなおさらである。
あいまいさによって尻尾をつかまれずにすむ。
一方、作品の側からすると多義的な言葉によってイメージは重層化する。
その場合、あいまいさは、物に対する影のようにイメージに奥行きをもたらす。
そして現実は、もしかすると、多義的で一義的に定まるようなものではないのかもしれない。
「ハムレット」や「マクベス」のようないくつかのシェイクスピアの作品の主人公は、その性格のあいまいさのゆえに、かえって時を超えた生命を保っている。
自然科学の世界の“真実”でさえも科学史の立場から見れば、次の“真実”に置きかわる前の暫定的なものにすぎないではないか。
厳密さの点では比べるもののない数字においてすら、あいまいさは避けられないという。あいまいなるがゆえに、一元的な神の支配を免れることができる。
※この対談は2009年5月に行われたものです
【インタヴューアー】 鍼灸臨床で診療録を作成するとき、最近はPOSシステムという医学的な根拠をもとに、患者の主観的な部分と、われわれが診た客観的な部分を勘案して評価をしていきます。
この、「勘案して」が非常に難しい。特に東洋医学的な部分で物事を考えていくと、2000年も前の社会風習が乗っているので、それを現代的な部分として見てしまうと、ギャップがあります。気候風土も違うと思いますし。
【広瀬】 2000年も前の考え方が鍼灸の世界の中にも反映されているんですか。
▶ https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=2585
【インタヴューアー】 はい。今、鍼灸は現代西洋医学的な考え方と、古代中国から始まった中医学の考え方、そして古典鍼灸の3つにほぼ体系化されています。われわれは東洋医学をやっていますので、東洋思想を反映させている。7つの感情の変化も、実はそこに起因しています。先ほどエビデンスの話がありましたが、古代中国的な考え方だけで進める状況ではないと思います。
東洋医学をどこまで受け入れて治療に当たるか、大きな課題の一つだとは思っています。なので、鍼の真の効果も見つつ、古典で言っていたことを現代的に解釈するためには、どういう手法を使ったらいいのかも、これから真剣に取り組んでいかなくちゃいけない部分なのかなと。
【広瀬】 特にコミュニケーションの面でいえば、古代中国でのコミュニケーションの在り方と現代社会でのコミュニケーションの在り方は違うわけですから、当然医療者と患者の関係も違うでしょう。その違いをどうやってアップデートしていくかが重要な課題になると思います。
【インタヴューアー】 難しい部分がたくさんありますが、RCTも一つの方法論かもしれませんし、生理学的な試みもしていきたいなと思っています。できるだけ客観的なものをつくりつつ、いわゆる真の効果を探求して、プラシーボはプラシーボとして伸ばしつつ。欲張りでしょうか。
【広瀬】 いいえ。プラシーボは偽薬だという発想があります。偽薬の概念が出てきたのは20世紀になってからです。臨床治験の中で比較対照用のニュートラルなプラシーボを使う状況になってから、初めて偽物という言い方がされるようになりました。ところが、ニュートラルのはずのプラシーボに治療効果があることが再発見されたのです。偽薬というとインチキな感じがしますが、あえて偽悪化する必要はない。本来医療が持っているべき一つの要素であって、プラシーボだから本当の医療ではないという言い方は間違いだと思います。
特に東洋医学は、それらが渾然一体となっているわけですから、プラシーボ効果を最大限に生かすためにどうしたらいいかという方向での検討も必要でしょう。われわれは何千年にもわたってプラシーボ効果の恩恵を受けています。現代医療の中で、例えば臓器移植や遺伝子治療を受けるとき、安心し自信を持って生きていくために、東洋医学的な発想といいますか、あえて言えばプラシーボ効果を有効に使った方法論を活用すれば、患者は予後をうまく乗り切っていくことができるのではないかと思います。
【インタヴューアー】 力強いお言葉をいただいて、勇気づけられます。今日はいろいろなお話をお聞きし、勉強になりました。ありがとうございました。
終わり