安全・安心研究センター 広瀬弘忠のブログ

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広瀬弘忠

21世紀型の災害は、規模の大きさと複合的な波及性、そして、なによりも衝撃がきわめて長期に渡るという点で、過去の災害とは異なる。従来型の災害に慣れてきたマスメディアは、この型の災害の本質を正確に掴みきれないでいる。

 

昨年3月11日の東日本大震災では、最初に巨大地震が発生した。次にこの地震による巨大津波が発生した。警察庁の発表によれば、死者・行方不明者19,009人のうち、9割以上が津波による溺死である。

 

いま、メディアの関心は津波に集中し、巨大津波を引き起こす海溝型地震の危険を訴える報道にシフトしている。「あつものに懲りて膾を吹く」たぐいの過剰な被害想定には十分な批判の目を向けるべきだろう。

 

津波は、最悪の原発事故を引き起こした。災害ドミノ倒しはこのように直線的に起こるだけではなく、面的な広がりももっている。

 

たとえば、地震や津波で生じた瓦礫の処理を行う人々は、将来、アスベスト特有のがんである中皮腫にかかるかもしれない。17年前の阪神大震災で瓦礫撤去を行なっていた人々が中皮腫にかかり、労災認定を受けている。現代の災害は、「想定外」の被害を随所に生み出すのである。

 

原発事故がもたらした放射能汚染は、農林、漁業に大打撃を与えている。マスメディアは、これらの現実を全体として国民に理解してもらえるよう努力しているだろうか。個々の被害を、複合災害全体を俯瞰する立場から捉え、その本質に踏み込むことが重要である。

 

被害者に寄り添うのは良いが、災害に個人の悲劇のみを見るのは安易すぎる。解くべき課題は、現代社会がかかえる災害脆弱性なのである。木だけを見ていては森は見えてこない。

 

次の問題は、災害の長期化である。原発事故による放射能汚染や巨大津波によるコミュニティの完全崩壊からの回復には、長い時間が必要である。そして憂慮されるのは、密かに進行する被害の拡大である。

時限爆弾の発火装置は、静かに時を刻んでいく。ところが、メディアはこのような災害を捉えるのが不得意である。すでに述べたアスベストの場合がそうであった。中皮腫は20年、30年もの潜伏期を経て発症する。

 

ニューヨークタイムズのジェーン・ブロディは、今年の8月21日の健康・科学欄に、画像診断医学に関わる専門家の意見をまとめて紹介している。それによると、CTスキャンによる放射能被爆だけでも、10年から20年後にがんを引き起こす危険があり、それは米国人の発がん全体の1.5%程度におよぶ恐れがあるという。

 

原発事故による低レベル放射能被爆に関して、多くの日本人が不安を感じている。その不安を宥めるような報道も目立つ。マスメディアは低レベルの放射能被爆が健康におよぼす影響について、きちんとした検証を約束して、その結果を逐次国民に伝えていくべきだろう。3.11当初からの原発報道の混乱ぶりは国民のメディアへの信頼を損なった。今度は、それをぜひ取り戻してもらいたいのである。

芥川の「藪の中」では、登場人物たちは意図的にか、あるいは無意識にか嘘をついているのだが、かりに、誰も嘘をつかないとしても、なにが真実かを語ることは誰も出来ない、明確には真実の一面だけを捉えることしか出来ないのである。

群盲が象をなでているようなものである。

人生においても、あるいは人類の歴史においても、我々はその真実なるものを捉える完全な能力を持っていないのだ。

したがって、あいまいな真実らしきものをつかむ手掛かりをつかむためには、従来の断定的な枠組みにとらわれてはならないということだろう。

真実を語る上で、あいまいさはむしろ物理的に生じるものであって、避けることができない。

つまり、それは不可避的な副産物として存在するものである。

従って、あいまいであるということが真実を語っているのではなくて、真実を語ろうとすると、そこにあいまいさが付きまとうのが本当のところである。

しかも、どの程度のあいまいさがあるのかはわからない。

むしろ、あいまいさのない真実はないということに注心すべきだろう。

このように見てくると、真実とは、複眼的視野の中におぼろげに現われてくるもの、それは、全体として我々がそれを見すかし、感じ取り、そしてそれを受け入れるものではあるまいか、と私は考えている。

続く

 

もし我々が、非常に明瞭な、あまりに明確な言葉を使って何かを表わすとすれば、それは時間限定であり、地域限定であり、文化限定で、一面では効率的であるが、賞味期限のあるもので終ってしまう可能性がある。

つまり、場合によれば、あいまい性が永遠性を保証するものになりうる、ということに我々は目を向ける必要があろう。

だがもちろん、ただあいまいであるだけでは、それは無価値であるばかりか、むしろ害悪でしかない。

ここでの問題は、真実を語るにはあいまいさを排除できないということなのだ。現実はそう単純ではないということだ。

ひとつの真実があり、一つの原理があるというようにはいかない。

真実はあいまいさを含まざるをえない。

我々の側からしても、そうでなければそれを飲み込むことが出来ないのである。

私は不可知論者に傾きつつあるのかもしれないのだけれども、絶対的な真実、もしそのようなものがあるとしてのことだが、を知ること、あるいは理解することは、不可能であると思う。

自然科学におけるきわめて普遍的な真理でさえも、せいぜいのところ我々の住むミクロコスモスの中でしか妥当しないのである。

絶対的に確かなものは存在しないし、確からしさを確率的に表現することの確からしさもそれほど確かなものではない。

我々は、あいまいさに包まれた真実を認めざるをえないし、その中にある真実に目を凝らすべきなのだろう。

われわれがリスクの問題を考えるときにもこのような視点が重要である。

続く

正統的なシェイクスピア役者は、かりに現代という時代設定の中でベニスの商人を演じる場合でも、セリフはシェイクスピアの原作そのままだし、韻の踏み方や言葉のリズムも、息つぎのしかたも当時のまま演じるのだという。

これはシェイクスピア劇の基本的な限定なのだそうだ。

これがなくなれば、もはやシェイクスピアではないし、それがまたシェイクスピア作品の美しさの主な源泉ともなっている。

だが、セリフは入りくんでおり、さまざまな解釈を可能にするほど多彩である。

それゆえであろうか、それだけでもなかろうが、いままでとは違ったふうに解釈してみたい、これまでにない新しい味付けをしたいといざなう何かがある。

翻訳者を飽くことなく魅惑して新しい創作に駆り立てる、何か根源的なものがありそうだ。

それは一体何なのか。多くの作品の中で登場人物の輪郭は、単純な描線であらわされていない。

しばしば同じ人物が、強くもあり弱くもあり、慎重でもあり軽率でもあり、残忍そのものであるかのようでいて良心の呵責に悩んでいる。

最悪人が悪そのものではなく、気高く勇敢な人物が嫉妬に狂い人を殺す。

善であり悪であるのだ。

マクベスの魔女の言葉のように、「きれいは穢きたない。穢きたないはきれい」なのである。

同じような言いかたをするならば、「本物は偽物、偽物は本物」「確かはあいまい、あいまいは確か」なのだ。

真実とはそのようなものとしか表現できないのではないのか。

言葉遊びのようだが、われわれが直面する真実のリスクもまた、そのようなものなのだ。

確率的に表現できるものなど、リスクの中の小物にすぎない。言葉は明瞭だが、実体はあいまいだからだ。

続く

かなり前の話しだが、ロンドンの王立演劇アカデミーの元校長、ニコラス・バータ-氏と、シェイクスピアの魅力とは何なのかということで雑談をしたことがある。

バーター氏は、イギリス演劇界の重鎮のひとりだそうだが、このことは後になってから知った。

さて、その時の話で、シェイクスピアの魅力の一つは、役者が発する言葉の多義性にあるということになった。

このようなことは多くの人々が言っていることで、特別に目新しいことではない。

多義的であることは、その対極にある一義的であるのとは違っていてあいまいさがつきまとう。

問題は、そのあいまいさの本質である。

戯曲作家の側からすれば、権力者や為政者から加えられる迫害や圧力から身をかわす保身の術として用いる必要があっただろう。

シェイクスピアの劇の多くは、政治劇でもあったのでなおさらである。

あいまいさによって尻尾をつかまれずにすむ。

一方、作品の側からすると多義的な言葉によってイメージは重層化する。

その場合、あいまいさは、物に対する影のようにイメージに奥行きをもたらす。

そして現実は、もしかすると、多義的で一義的に定まるようなものではないのかもしれない。

「ハムレット」や「マクベス」のようないくつかのシェイクスピアの作品の主人公は、その性格のあいまいさのゆえに、かえって時を超えた生命を保っている。

自然科学の世界の“真実”でさえも科学史の立場から見れば、次の“真実”に置きかわる前の暫定的なものにすぎないではないか。

厳密さの点では比べるもののない数字においてすら、あいまいさは避けられないという。あいまいなるがゆえに、一元的な神の支配を免れることができる。

※この対談は2009年5月に行われたものです

 

【インタヴューアー】 鍼灸臨床で診療録を作成するとき、最近はPOSシステムという医学的な根拠をもとに、患者の主観的な部分と、われわれが診た客観的な部分を勘案して評価をしていきます。

この、「勘案して」が非常に難しい。特に東洋医学的な部分で物事を考えていくと、2000年も前の社会風習が乗っているので、それを現代的な部分として見てしまうと、ギャップがあります。気候風土も違うと思いますし。

【広瀬】 2000年も前の考え方が鍼灸の世界の中にも反映されているんですか。

 

 https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=2585

 

【インタヴューアー】 はい。今、鍼灸は現代西洋医学的な考え方と、古代中国から始まった中医学の考え方、そして古典鍼灸の3つにほぼ体系化されています。われわれは東洋医学をやっていますので、東洋思想を反映させている。7つの感情の変化も、実はそこに起因しています。先ほどエビデンスの話がありましたが、古代中国的な考え方だけで進める状況ではないと思います。

東洋医学をどこまで受け入れて治療に当たるか、大きな課題の一つだとは思っています。なので、鍼の真の効果も見つつ、古典で言っていたことを現代的に解釈するためには、どういう手法を使ったらいいのかも、これから真剣に取り組んでいかなくちゃいけない部分なのかなと。

【広瀬】 特にコミュニケーションの面でいえば、古代中国でのコミュニケーションの在り方と現代社会でのコミュニケーションの在り方は違うわけですから、当然医療者と患者の関係も違うでしょう。その違いをどうやってアップデートしていくかが重要な課題になると思います。

【インタヴューアー】 難しい部分がたくさんありますが、RCTも一つの方法論かもしれませんし、生理学的な試みもしていきたいなと思っています。できるだけ客観的なものをつくりつつ、いわゆる真の効果を探求して、プラシーボはプラシーボとして伸ばしつつ。欲張りでしょうか。

【広瀬】 いいえ。プラシーボは偽薬だという発想があります。偽薬の概念が出てきたのは20世紀になってからです。臨床治験の中で比較対照用のニュートラルなプラシーボを使う状況になってから、初めて偽物という言い方がされるようになりました。ところが、ニュートラルのはずのプラシーボに治療効果があることが再発見されたのです。偽薬というとインチキな感じがしますが、あえて偽悪化する必要はない。本来医療が持っているべき一つの要素であって、プラシーボだから本当の医療ではないという言い方は間違いだと思います。

 特に東洋医学は、それらが渾然一体となっているわけですから、プラシーボ効果を最大限に生かすためにどうしたらいいかという方向での検討も必要でしょう。われわれは何千年にもわたってプラシーボ効果の恩恵を受けています。現代医療の中で、例えば臓器移植や遺伝子治療を受けるとき、安心し自信を持って生きていくために、東洋医学的な発想といいますか、あえて言えばプラシーボ効果を有効に使った方法論を活用すれば、患者は予後をうまく乗り切っていくことができるのではないかと思います。

【インタヴューアー】 力強いお言葉をいただいて、勇気づけられます。今日はいろいろなお話をお聞きし、勉強になりました。ありがとうございました。

終わり

※この対談は2009年5月に行われたものです

 

【インタヴューアー】 患者と接するとき、気を付けておいたほうがいいところがありましたら、教えていただけませんか。

【広瀬】 臨床心理のカウンセリングを例にして話してみましょう。面接の仕方にはいろいろな方法があります。ロジャース法を用いる人がけっこう多いですが、ここでは、相手の言葉を受け入れることが重要です。ひたすら受け入れて、患者が本当は何を不安に思っているかを、患者自らがしゃべり始めるようになることが必要です。最初に治療院を訪れる時は警戒していたり、多分に自分のことを良く見せようとしたり、いろんな人間的要素が働いていて、本当のことを言わないかもしれないですからね。そして、「あの先生なら自分の言っていることを受け入れてくれて、自分のことを理解してくれる」という、一種の信頼関係ができたときに、患者自身が何を求めていて、どういう心身の状況なのかということがわかってくるわけです。

自分を装ったり、うそをつく必要はないことを感じさせる。この本※にも書きましたが、同じ薬でも患者自身が絶対効かない、あるいは効かせないようにしようとすれば、それは効かない。自分の態度を変えてそれを受け入れるとき、初めて効くようになる。同じように、受け入れる側が本当に受け入れるという姿勢を持ったときに、初めてそこに医療者と患者との間のコミュニケーションが成り立ち、良好な医療が行われると思います。

 

 

※心の潜在力 プラシーボ効果 (朝日選書)

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=2585

 

 

【インタヴューアー】 あまり入り過ぎてもいけないですよね。同情してしまうと、むしろ相手に引っ張り込まれてしまうとも聞きます。

【広瀬】 相手にオーバーコミットしちゃいけない。医療者は医療者としての領域があり、患者は患者としての領域がある。その境を越えて、例えば個人的な問題などにかかわってくると、今度は

「あいつ、前にはこんなこと言ったじゃないか」

とか、愛憎関係が出てきたりする。心理療法でも難しいのは、どうしてもそこへ行っちゃうんですね。何回も面接していると相手のことがよく分かってくるものだから、同情が出てきたり、

「あんた、飲みすぎちゃいけないよ」

などと個人的な生活に立ち入ってきたりする。そのうちに、医療者と患者の境界がはっきりしなくなります。

 医療者と患者との関係は、ある意味で君子の交わりのようなもので、淡きこと水のごとし、しかも冷たい水ではない関係だと思います。

【インタヴューアー】 難しいですね。それを体得するためには、われわれどんなことを常日ごろ考えておけばいいでしょうか。

【広瀬】 まず、自身の心理、ほかの人の心理を知る必要があると思います。患者は、いろんな年齢の人がいますし、性別の違いもあります。誠実な態度を持って、相手を理解しようとすることが大切なのではないでしょうか。

続く

※この対談は2009年5月に行われたものです

 

【インタヴューアー】 鍼灸の世界ではよく、感情がいろんな病気を引き起こし、感情がいろんな臓腑を傷つけると言います。メンタル面の動きと病気の関係についてお話しいただけますか。

【広瀬】 心理学でも非常に関心のある分野です。例えば、人はストレスフルな状況に置かれたときに胃潰瘍になる。そんなときに心身にはどのような関係があるか。有名な「トムの胃」という例があります。『Time』に掲載されました*。

トムが9歳の時、お父さんが熱いシチューをビールの入れ物に入れて持ってきた。トムは9歳ですがビール好きだったんでしょう、がぶっと飲んだらしい。そうしたら食道がただれてしまって、食道から食べ物が摂取できなくなりました。

医者はトムの胃に穴を開け、おなかにゴムの栓をしました。食事はトムが自分で咀嚼して、食道を介さないで、じょうごのようなものを使って胃の中に直接入れました。それでもトムは70歳くらいまで生きるわけです。

トムの胃の中がどうなっているかを調べたところ、例えばストレス状況になると胃の中が充血するとか潰瘍ができるとか、いろいろ分かってきました。

われわれ心理学者の側からいえば、心理と生理は非常に密接な関係がある。ストレスの高い状況に置かれたら、胃だけではなくて、脳や循環器系も影響を受けてしまう。

【インタヴューアー】 鍼灸では、感情が原因で病気になったときに、鍼治療をしてその病気の元を治していくこともありますが、それ以前に、感情のコントロールが非常に重要な役目をしているように思います。感情のコントロールには患者と医療従事者とのコミュニケーションが大事ではないでしょうか。

【広瀬】 やはり信頼感でしょう。「この人なら自分のことを考えてくれる」と患者が医療者を信頼して、安心感を持てることが重要ですね。

【インタヴューアー】 真の効果がなければ、むやみに期待を持たせるわけにはいかないと思いますが、期待を持たせることがプラシーボ効果を生んでくる。それをコミュニケーションや信頼関係ということで結び付けてくると考えればよいでしょうか。

【広瀬】 そうだと思います。この場合の医療者というのは、プラシーボ効果を生み出すための媒介です。つまり巫女さんのようなもので、神の言葉の伝え手です。ですから、言葉の使い方は重要です。医者もそうですが、言葉の使い方において正確であろうとして、むしろ患者に不安を起こしてしまったり、感情を傷つけてしまうことがありますね。

 伝統医療のメリットは、医療者が持っているオーラのようなもの、信頼や安心を与える力が効果を高めるところでしょう。

【インタヴューアー】 期待が大きくなるとプラシーボ効果も大きくなるという話がありました。期待は治療する側の、オーラのようなものが示していく。そんなとらえ方ですか。

【広瀬】 ええ。患者さんは不安で来るわけですよね。どうしてこうなっちゃったんだろうとか、あるいは痛くてしょうがないとか。そう言って来た患者さんに対して、それを受け入れて、言葉のプラシーボを返す。うそをつく必要はないのです。心の中に入っていくような力。言葉の力ですね。それを持つとさらに力が加わると思います。

【インタヴューアー】 われわれは人間性も磨かなくてはいけないということになりますね。プラシーボ効果を意識して取り組むことが大事でしょうか。

【広瀬】 医療者は、プラシーボを最大限に生かす工夫が必要でしょう。特に東洋医学は心身の総合医療をめざしているわけですから。

【インタヴューアー】 「医者のさじ加減」という言葉がありますが、今の先生のお話につながるのかなと思いました。先ほど「オーラ」とおっしゃいましたが、われわれはコミュニケーション能力を高めないといけない。それが東洋医学の良さを引き出す大きな要素なのでしょうね。医療者によって患者の具合がよくなったり悪くなったりするのは、プラシーボ効果が働いているのかなという気がします。

【広瀬】 技術や技量もあると思います。プラシーボとはそもそもそういうものですが、ばらつき、分散がものすごく大きいのです。もちろん信頼されても技量も良くなければいけません。患者が落ち着くことができ、安心して治療を受けられる状況の中だとプラシーボも良く働きます。逆にぞんざいに扱われると、プラシーボ効果が働かず、結局は、医療自体もあまり効かないことになります。

【インタヴューアー】 パターナリズムはプラシーボ効果を生みますか。

【広瀬】 医療者が「おれに任せとけ」と言い、患者さんのほうもそのような気持になれれば、あるいは効くかもしれません。でも、自分勝手だとか、偉そうなことを言うと患者が思えば効かなくなってしまいます。

【インタヴューアー】 なるほど。やはり信頼関係なんですね。それがプラシーボ効果を生む最大の要因だ、と。

【広瀬】 プラシーボを生み出すための条件はいくつかあります。まずは信頼関係。それから、それ自体が効果を持っているということも重要です。本来鍼が持っている効果がなかったら、より大きなプラシーボ効果は生まれないですよね。砂糖のピルで痛みが抑制されることは確かにありますが、効果は極めて限定されていますから。

続く

※この対談は2009年5月に行われたものです

【インタヴューアー】 プラシーボ効果が真の効果を超えることがありますか。

【広瀬】 あります。かつて胃潰瘍治療の画期的な薬と言われたシメチジンは、治験の場所によっては本物のシメチジンよりもプラシーボのほうが効いていることがありました。どういう医療機関でどういう医者がそれを処方したかによって、本物を与えられた場合よりも効く場合があるわけです。

平均的に効かない薬はいい薬とは言えません。効く人には効き、効かない人には効かない。プラシーボは、多分にそういう面があります。安定しないのです。

本当は、鍼を使うことの中に、プラシーボ効果が入り込んでいるんですね。真の効果とプラシーボ効果の配分は千変万化するわけです。分けるよりも、一体として考える方が良いと思います。あえてプラシーボ効果を分ける必要はないと思うのです。

【インタヴューアー】 研究ベースで物を考えると、どうしても真の効果とプラシーボ効果を分けたくなりますが、実際の臨床の現場では真の効果とプラシーボを併せて使っていくわけですものね。

【広瀬】 これがまた不思議なところですが、薬などの真の効果は、その治療成績の平均値からプラシーボ効果の平均値を引いて出しているんですね。多くの治験薬は、真の効果がゼロに近い、つまりプラシーボ効果と差がないわけです。

そういう薬は、かりにある人にとってはものすごく効いても、認可されないから市場には出回らない。個々のケースではなく、あくまでも平均として扱っているところに、問題があります。

【インタヴューアー】 先生のおっしゃることはよく分かります。n of oneという個々の評価をする方法もありますよね。新しい研究方法としては、個人差を考慮したやり方がピックアップできるのではないでしょうか。

【広瀬】 医療では、特定の人に効けば万人に効く必要はないこともあります。

【インタヴューアー】 ただ、そこで一つ気をつけなければならないのは、それがすべてだと思ってしまうことだと思います。医療を提供する側がモラルをしっかりと持っていないといけない。

【広瀬】 いわゆる西洋医学は、一定の資格を持った人がやれば、ある程度同じような効果が得られる。効果のバラツキが相対的に小さいわけです。しかし東洋医学は、医療者のパーソナリティーや手練とかコミュニケーション力が含まれた、一種の総合医療です。だから平均を取ると損ですよね。伝統的な治験のやり方で結果が出ないのは、損な部分で勝負しているからではないでしょうか。

【インタヴューアー】 今までのやり方ですと、プラシーボを引いて判断しなければいけませんでしたが、今はプラシーボも含めて効果判定をしていくような考え方が出てきているのでしょうか。

【広瀬】 西洋医学的なアプローチでは、両者は別物という考えが依然として強いですよね。プラシーボ効果は真の効果にプラスするプラスアルファだという考え方は、どうしてもありますね。厄介なことに、プラシーボ効果そのものが治験薬の評判とか薬効の程度に応じて変動するわけです。ことはそう簡単にいかない。

 

 

効く薬ほど期待が大きく、プラシーボ効果は大きくなる。鍼に関しても、いろんな研究があります。NIHがやった研究ではプラシーボ効果と真の効果に差がない。差があるのは医療者と患者との関係だとも言っています。非常に多岐にわたる要素が微妙に絡んでいます。

【インタヴューアー】 真の効果、もしくはプラシーボ効果を明確にしていくためには、今後どんな方法論を取って研究すればよいでしょうか。

【広瀬】 薬の治験でも、プラシーボを使った治験でないと主なジャーナルに載せないとか、どうしてもプラシーボを使わざるを得ない状況があると思います。プラシーボ効果が働いていることは間違いなく、その場合、統計的に有意差があるかないかは微妙な問題で、たくさん数をやれば統計的に厳密な結果が出てきますが、鍼治療の場合などはたいてい少人数で何回かやる。そうすると、その場の状況など、いろんなバイアスが入ってきてしまう。

 アメリカでは、東洋医学のなかで鍼を重視していると思います。鍼の治験は、NIHがやっている以上にもっと大規模に、いろんな症状や被験者の組み合わせなどを使って、客観的にやらざるを得ないと思います。

【インタヴューアー】 例えばベストケースをたくさん集めて効果を見ていくのも1つの方法論として成り立ちますか。

【広瀬】 今や「Evidence Based Medicine」ですから、NIHなどを説得するためには、個々の症例を集めてきても効果はありません。統計的に有無を言わせない形のプロトコールを作らなければ駄目です。

【インタヴューアー】 検証方法はRCT、ダブルブラインドがベストでしょうか。

【広瀬】 今のところはそうだと思います。プラシーボ効果は、例えば医療者と患者との間の関係や場の雰囲気などの影響を受けます。医療者も患者も知らないというダブルブラインドで治験をやらないと、説得力がありません。

続く