安全・安心研究センター 広瀬弘忠のブログ

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広瀬弘忠

やや昔の話だが、ロンドンの王立演劇アカデミーの元校長、ニコラス・バータ-氏と、シェイクスピアの魅力とは何かということで雑談をしたことがあった。バーター氏は、イギリス演劇界の重鎮のひとりだそうだが、そのことは後になってから知った。私はシェークスピアは好きだし芝居も数多く見ているが、専門家ではない。その時の話で、シェイクスピアの魅力の一つは、役者が発する言葉の多義性にあるということになった。このようなことは多くの人々が言っていることで、特別に目新しいことではない。多義的であることは、その対極にある一義的であるのとは違っていて曖昧さが付きまとう。問題は、その曖昧さの本質である。戯曲作家の側からすれば、権力者や為政者から加えられる迫害や圧力から身をかわす保身の術として用いる必要があっただろう。シェイクスピア劇の多くは、政治劇でもあったのでなおさらである。曖昧さによって尻尾をつかまれずにすむ。一方、作品の側からすると多義的な言葉によってイメージは重層化する。その場合、曖昧さは、物に対する影のようにイメージに奥行きをもたらす。

ここで思考の飛躍しすぎをあえておかすことにすれば、あらゆるこの世の現象、あるいは現実もまた、もしかすると、多義的で一義的に定まるようなものではないのかもしれない。「ハムレット」や「マクベス」のようないくつかのシェイクスピア作品の主人公は、その性格の曖昧さや多重性のゆえに、かえって時を超えた生命を保っている。自然科学の世界の“真実”でさえも科学史の立場から見れば、次の“真実”に置きかわる前の暫定的なものにすぎないではないか。厳密さの点では比べるもののない数学においてすら、曖昧さは避けられないという。曖昧なるがゆえに、一元的な神の支配を免れることができる。

正統的なシェイクスピア役者は、かりに現代という時代設定の中でベニスの商人を演じる場合でも、セリフはシェイクスピアの原作そのまま、韻の踏み方や言葉のリズムも、息つぎのしかたも当時のまま演じるのだという。これはシェイクスピア劇の基本的な限定なのだそうだ。これがなくなれば、もはやシェイクスピアではないし、それがまたシェイクスピア作品の美しさの源泉ともなっている。だが、セリフは入りくんでおり、さまざまな解釈を可能にするほど多彩である。それゆえであろうか、それだけでもなかろうが、いままでとは違ったふうに解釈してみたい、これまでにない新しい味付けをしたいといざなう何かがある。翻訳者を飽くことなく魅惑して新しい創作に駆り立てる、何か根源的なものがありそうだ。それは一体何なのか。多くの作品の中で、登場人物の輪郭は、単純な描線であらわされていない。しばしば同じ人物が、強くもあり弱くもあり、慎重でもあり軽率でもあり、残忍そのものであるかのようでいて良心の呵責に悩んでいる。最悪人が悪そのものではなく、気高く勇敢な人物が嫉妬に狂い人を殺す。善であり悪であるのだ。マクベスの魔女の言葉のように、「きれいは穢きたない。穢きたないはきれい」なのである。同じような言いかたをするならば、「本物は偽物、偽物は本物」「確かは曖昧、曖昧は確か」なのだ。

われわれが把握する真実とは、そのようなものとしか表現できないのではないのか。しかも何十万年にもわたり進化して到達した、われわれの この限界を持った認知能力の範囲を超えないという制約のもとに。言葉遊びのようだが、われわれが直面するさまざまなリスクもまた、そのようなものなのだ。確率的に表現できるものなど、リスクの中の小物にすぎない。言葉は明瞭だが、実体は曖昧だ。

もしわれわれが、非常に明瞭な、あまりに明確な言葉を使って何かを表わすとすれば、それは時間限定であり、地域限定であり、文化限定で、一面では効率的であるが、賞味期限のあるもので終ってしまう可能性がある。場合によれば、曖昧性が永遠性を保証するものになりうる、ということにわれわれは目を向ける必要があるだろう。だがもちろん、ただ曖昧であるだけでは、それは無価値であるばかりか、むしろ害悪でしかない。ここでの問題は、真実を語るには曖昧さを排除できないということなのだ。現実はそう単純ではないということだ。ひとつの真実があり、一つの原理があるというわけにはいかない。

真実は曖昧さを含まざるをえない。これはわれわれの認知能力の問題であるのかもしれないのだが、絵画の中で対象と背景とを分ける描線が単なるフィクションであるように、確たるものと不確かなものを分ける境界もまたフィクションであるに違いない。私は不可知論に傾きつつあるのかもしれないのだけれども、絶対的な真実、もしそのようなものがあるとしてのことだが、を知ること、あるいは理解することは、不可能であると思う。自然科学におけるきわめて普遍的な真理でさえも、せいぜいのところわれわれの住むミクロコスモスの中でしか妥当しないのである。絶対的に確かなものは存在しないし、確からしさを確率的に表現することの確からしさもそれほど確かなものではない。われわれは、曖昧さや多重性に包まれた真実を認めざるをえないし、その中にある真実に目を凝らすべきなのだろう。われわれがリスクの問題を考えるときにもこのような視点が重要である。

芥川の「藪の中」では、登場人物たちは意識的にか、あるいは無意識にか嘘をついているのだが、かりに、誰も嘘をつかないとしても、なにが真実かを語ることは誰も出来ない、明確には真実の一面だけを捉えることしか出来ないのである。群盲が象をなでているようなものである。人生においても、あるいは人類の歴史においても、われわれはその真実なるものを捉える完全な能力を持っていないのだ。したがって、曖昧な真実らしきものをつかむ手掛かりをつかむためには、固定的な枠組みにとらわれてはならないということだろう。私は、長年リスクの問題に関わってきて、このことはリスク認知やリスク対応の変動を説明する際の鍵であるように思われる。

真実を語る上で、曖昧さはむしろ物理的に生じるものであって、避けることができない。つまり、それは不可避的な副産物として存在するものである。従って、曖昧であるということが真実を語っているのではなくて、真実を語ろうとすると、そこに曖昧さが付きまとうのが本当のところである。しかも、どの程度の曖昧さがあるのかはわからない。むしろ、曖昧さのない真実はないということに注心すべきだろう。

このように見てくると、真実とは、複眼的視野の中におぼろげに現われてくるもの、それは、全体としてわれわれがそれを見すかし、感じ取り、そしてそれを受け入れるものではあるまいか、と私は考えている。すべてのリスクもまた、そのようなものとしてあるのだろう。

私は軽井沢に暮らすことが多くなっている。わが家の庭には、大きな栗の木と、何本かのミズキの大木があった。ある年の台風で、それらが大きく傾いた。植木屋が言うところでは、今度大きな台風が来たら、倒れて隣家やわが家に被害を与えるかもしれないとのことだ。そこでやむなく、重機を使って吊り上げて切るというずいぶん荒っぽいことをやって、それらの大木を伐採してもらった。それは3月のことで、まだこの地では雪が残っていた。だが、わずか4カ月後の、7月になってみると、大きな栗の木、毎年たくさんの栗の実を地上に落していた大木がなくなった空間を、それまで隠れていて、少々いじめられていたトウヒの木がめざましい成長を遂げて占領してしまっていたのだ。2メートルも樹高を伸ばし、かつて栗の木が覆っていた天井と同じくらいの高さにまで成長していたのである。同じことが、直径80センチほどのミズキを切った後にも起った。ミズキの陰に隠れて、ほとんどこれでは枯れるのではないかと思っていた山法師が、これもまた勢いづいて、大いに枝を張り、軒先にまでその枝が届くような始末であった。しだれ桜もまた同じであった。

トウヒや山法師やしだれ桜にとって、栗の木やミズキは、自分の成長を妨げる邪魔者以外の何者でもなかったのである。よく世間で「余人をもって変え難い、だから今回は留まって欲しい」と慰留して、高齢の人物を長くその地位に押し止めておく習慣がいまだにあるが、これは若い世代の成長を阻み、世の中の進歩を遅らせる最大の原因ではないかと思い至ったのである。多くの新しい時代、あるいは革命や革新は、時に暴力的な若い世代によって担われている。フランス革命も然り、アメリカの独立運動も然り、日本の明治維新もまた然りである。古い世代や旧体制を暴力によって打ち倒すことは、いわば災害であり、犠牲をともなう。

台風や地震のような自然災害であろうと、大火災や大爆発のような人為災害であろうと災害には古きものを倒し、新しきものを芽生えさせるという側面がある。第1次世界大戦時に、カナダのハリファックス港で起った弾薬積載船の大爆発事故も、関東大震災も同じである。悲劇は悲劇だけではないのである。

災害は、社会の新陳代謝のサイクルをはやめ、世代交代を加速する。

私の庭で起ったこの世代の交代劇において、私はたまたま偶然にも災害を下す役割を演じてしまったわけだが、そのことが、今まで伸び悩んでいた新しい勢力を大いに元気づけたということも知ったのである。災害の働きを冷徹に見れば、それは幾分かの効用も持っているのである。余人は常にいて、それはいつでも当人と交代可能だということを思い知らされた次第である。

2月27日15時34分発生のチリ地震(M,8.8)に起因する津波で、日本の気象庁は17年ぶりの大津波警報を発表した。3月1日、記者会見で気象庁は、関田康雄地震・津波監視課長が「津波の予測が過大だった。警報が長引き迷惑をかけたことをおわびしたい」と謝罪した。この謝罪に対して、前報に述べたように政府もメディアも寛容で、世論も過小よりも過大に振れることは許容されるべきだとして、用心深いにこしたことはない、という反応を示している。そして、その一方で、予測は正確であるべきだし、過大な予測にもとづいて警報を出すべきではないという意見に批判的であるようだ。しかし、前報でも指摘したように、“空振り”にはコストがともなうのである。アメリカ大洋大気象の太平洋津波センターも、チリ地震による太平洋沿岸地域の被害はそれほど大きなものにならないとするアメリカの津波研究者グループの予測を承知したうえで、より安全重視のスタンスから津波警報を出していたわけだ。だが、その慎重な姿勢を示した太平洋津波警報センターが、太平洋沿岸全域の津波警報を解除したあとも、その後8時間半にもわたり気象庁の津波警報は維持され、そこからさらに7時間後になって、やっと全ての警報と注意報を解除している。
これは明らかに過剰である。この間の経済的、社会的、心理的コストもさることながら、過大な予測にもとづく警報は、われわれには虚報として作用する。今回の警報発表地域における避難指示・避難勧告に従った人々が平均で3.8%と低かったのは、気象庁が科学的な実況報告による説明と説得をしないで、ただ一方的に警報を流していたという安易な姿勢にも、その一因がある。危機意識の低さを論じる前に、警報の発表や避難指示・勧告は、住民に対する危機回避の説得行動だという意識を、気象庁も地方自治体も持つべきなのだ。
3月9日に、気象庁は、今回の津波の予測が過大だったことを受けて、4月から予測システムの改善に乗り出した。これにより、より高い精度の予測にもとづいて警報が出されるようになるだろう。それはぜひとも進めてもらいたいと思うが、同時に警報を出すということがどのような行為なのか、この問題に関しても、十分に検討してもらいたいと思う。一般に、津波警報による避難率は非常に低いのだが、その理由は何かということを追求してもらいたいと思う。単に、住民の意識が低いだけではないはずだ。

(経緯)

 2010年2月27日15時34分(日本時間)発生のチリ地震(M8.8)による津波に関して、気象庁は、翌28日9時30分、すなわち、地震発生の18時間後に東北3県に大津波警報を発表した。17年前の北海道南西沖地震(奥尻)以来の大津波警報だった。同時に、太平洋岸の各県に津波警報・注意報が出され、これを受けて189市町村の168万人に避難指示・勧告が出された。

 地震発生から27時間後の18時37分(日本時間)、アメリカ大洋大気局の太平洋津波警報センターは、太平洋地域の津波警報を解除した。気象庁は、19時1分に大津波警報を警報に切り替え、地震発生の35時間後に、全ての警報を注意報に切りかえた。

 3月1日、気象庁は津波を過大評価したことを陳謝した。メディアも政府・自治体も、この過大評価に寛容で、災害の専門家は、むしろ避難率の低かったことを遺憾だとし、その理由を住民の危機感のなさのうちにさぐろうとしている。総務省消防局の調べでは、住民の避難率は全体では3.8%、このうち大津波警報の発表地域では7.5%であった。この避難率は、これまでの避難指示・勧告の発令時と大差はない。この間、鉄道、フェリーなどは運休し、高速道路は閉鎖された。

(科学的根拠にもとづく問題指摘)

 科学専門誌「Nature」は、最新号(464, 7285, 14-15)で今回の津波と各国の対応についての紹介記事を掲載している。それによると、地震発生から2時間以内に、アメリカの津波の専門家たちは、チリ以外の太平洋沿岸諸国の津波の被害は小さいと予測していた。だが、現実には、ハワイから日本までの太平洋沿岸の広範な地域に津波警報が発令されている。アメリカの何人かの津波の専門家たちは、このような対応を用心深さの限度を超えるものだと言い、別の専門家たちはコストのかかる過剰対応だとしている。今回の地震の震源域が比較的浅い海底にあり、地震によって動く海水の量が小かったというのが、津波の被害が小さいとする科学的根拠だ。津波の専門家であるUniversity of Southern California のCostas Synolskis は「警報システムは、予測が信頼できる場合にのみ十全に機能する。だが、警報を出すにあたっては抜け道もある」と述べている。

アメリカ大洋大気局の太平洋津波警報センター(PTWC)は、チリ以外での津波の被害は小さいという科学的予測にもかかわらず、50年前(1960年)のチリ地震による津波で被害を受けたことにかんがみて、住民を危険にさらすことはできないと判断して警報を出した。その結果、ハワイでは数千人が避難した。実際には、ハワイに到達した津波は、通常の高波程度であり、日本では小規模な浸水があった程度である。PTWC所長のチャールズ・マクリーリは、津波の科学的モデルによる予測被害の程度に比し、より慎重な対応を取ったことを認め、津波モデルへの信頼性が増していけば、警報の解除はより容易になるだろうと述べている。

このような場合に、津波警報を出すのはよいとしても、過剰な対応は警報への信頼性を失わせる。慎重すぎたと批判されるアメリカ太平洋津波警報センターが太平洋沿岸諸国に出していた津波の警報を解除した後も、さらに7時間半にわたって、気象庁は警報の発令状態を放置している。あまりに慎重すぎたとのそしりはまぬがれないだろう。

(今回の津波警報と避難指示・勧告の問題点)

 今回のショッキングな避難率の低さは、伝家の宝刀である大津波警報を出すにあたって、津波の危険に対する気象庁の説明と説得が十分ではなかったことが原因だ。また、科学的根拠も薄弱なままに、きわめて長時間にわたって警報を引きのばしながら、結果的に予測をはずしたことによって、警報に対する信頼感を損ねた。

 人間も含めて多くの動物は危険を反射的に避ける。ところが、警報は危険そのものではないために、警報と避難行動は直結しない。警報の受容はいくつかの意思決定の段階を経て危険回避の行動をひき起こす。

 そこで、気象庁のような正当化された権威が出す警報、市町村長が出す避難の指示・勧告が持つべき要件は、ほぼ次のようになる。

①説得行為であり、恫喝は通用しない

②リスクは可視化されているか?

③危険は本当にあるのか?それは具体的に明示されているか?

④危険の適宜見直しが行われているか?

⑤人間が行うCost-Benefitの観点からの配慮がされているか?

もし、国民を子供扱いして、安全面だけに配慮して、オーバーに出すと、警報は割り引いて判断される。過大評価とか過小評価の問題ではなく、虚報は結果において警報の信頼度を低める。科学的なリスクの見直しを行うことによって、それまでの判断の誤りを修正し、より妥当な警報、避難指示等の発表、解除を可能にしなければならない。安全社会と健全な社会の双方を両立させることが重要である。そうでないと、何か被害があれば責任を問われることを配慮する行政は、警報自体がもたらす社会・経済的損失が小さいと判断される場合には警報を乱発し、一度出した警報は緩められない。その結果、地方自治体も避難指示・勧告を解除できないということになる。

地震、津波だけではなく、テロやインフルエンザの流行でも同様なことが起こる恐れがあり、行政やメディア側の過剰反応は社会・経済的損失だけでなく、それによって個人もまた大きな損失をこうむる可能性があることを知るべきである。